フィリピン・イスラム水上集落訪問記


ガイドブックにない街へ

 ミンダナオ島のイスラム教徒の集落を撮影する依頼を受けて、久しぶりにフィリピンに飛んだ。

 ミンダナオ島では一部のイスラム教徒原理派が山中にこもって政府軍とゲリラ戦を繰り返している。 1996年に和平協定が交わされたが、その後も戦闘が続いている。また政府のプロパガンダなどにより 、マニラなどのフィリピン他地域の人々は、イスラム=過激な戦闘集団という観念を持っており恐れている。  

 別に武装ゲリラと接触するわけでもなく、イスラムと言っても穏健派もいるということは以前に インドネシアに滞在した経験からわかっていた。それでもその時は何の後ろ盾のない単身でミンダナオ に乗り込まねばならなかったので、警戒心半分だった。

 サンボアンガという島の南西の端にある都市にはキリスト教徒とイスラム教徒が共存していた。 ここまでくればマニラより、東マレーシアのほうが近い。街を歩く女性は服装でイスラム教徒かどうかわかる。 そんな彼らが住んでいるのは町外れの埋立地やその先の水上家屋である。

 フィリピンはスペインの植民地でもあったことから全国の地名や単語にスペイン語の名残が見られるが、 サンボアンガで話されているチャバカーノということばは特にスペイン語の影響が大きいらしい。
 数字の数え方や簡単な日常会話はスペイン語と同じだとホテルの従業員から言われたが、街中で会話を つまみ聞きしてみてもどうしてもスペイン語には聞こえない。しかし、食堂などで簡単なスペイン語を使うと 相手は「あっ、スペイン語」と一瞬身構えるものの意味は理解している。 

●集落の入口まで
 1635年にキリスト教徒が築いた「ピラール砦」と隣接する教会が陸地の町外れになるが、その先がリオ・ホンドという イスラム教徒の集落へと続く一本道で入り口にはチェックポイントがあった。

 教会の横にある屋台で情報収集もかねて一休みすると、店を切り盛りしている家族が「この先には 何があるか知ってるか? イスラム教徒がいるんだ。危ないから行くんじゃないよ」とみんなが口をそろえて言う。

  いきなり出鼻をくじかれた形になったが、仕事だから行くしかない。一服を終えてから店のみんなに 気づかれないようにチェックポイントの向こうになる一本道に向かった。

 昼下がりで現地人やジープニー(乗り合いジープ)などが普通に往来していたのでとりたてて危険は感じられなかったが、 気合を入れて歩き始めると、チェックポイントにいた警官に呼び止められ「ここから先は警察の力が 及ばないので身の安全は保障できない」というような注意を受けた。

 そういったのは拳銃を持っていない丸腰で、マークの入ったシャツでかろうじて警官かな、と思えるほどのまだ あどけなさの残る20代半ばくらいの若者だった。そんなにきつい警告と言う感じではなかったので 、そのことばを心にとどめてそのまま通り過ぎた。そこから先1キロほどの一本道の先には水上家屋の村の 入口のようなゲートがあり、その向こうに木製の橋が見えてきた。

 ゲートまでの一本道は水面ぎりぎりゼロメートルの埋め立て地で、家屋はあるものの木陰になるものがほとんどなく 、じりじりと真昼の太陽が容赦なく照り付けて早くも試練を与えてくれる。

 やや遠くだがゲートが見えているのでジープニーに乗るまでもないと思い歩き始めた。しかし、実際はなかなか距離があった。 暑さを忘れるために、その間にいろいろなことを考えた。
 ・水上家屋は利便性を生かして作られたもので、マレーシアやブルネイにも同様のものが存在する。
 ・しかし、現在の生活環境にそぐわないことから水上から陸上で生活する人々が増加して、残っているのは少数派となっている。
 ・政府も近代化という大義名分を掲げて水上生活者のために陸上にアパートを建設して移住を促進しているが、陸上での生活を拒否している人もいる。特にイスラム教徒の人々に多い。
 その理由は水上生活に慣れきってしまったことか、それとも少数派の意地なのか。
 いろいろ考えられるが、異教徒との無用のトラブルも避けられるということが大きいのだろう。

●いよいよ潜入
 ゲートの前がジープニーのターミナルになっていてそこから先は車両は通行できない。橋はたいこ橋のように中央が盛り上がっている。そして板がところどころ腐って抜け落ちており、なれないと怖いものだ。

 そこからは舗装された道に代わって橋の道となり、両端には民家が続いているが橋の道はだんだん細くなり横道のほうでは小さな木や竹を通しただけの簡単なもので、板が外れていたり風が吹くと揺れる。そのため現地人はスイスイと歩いていくのだが、こちらはどうもへっぴり腰が抜けない。そんな感じだから周りからすぐに外国人とわかってしまう。

 足元を見ながら歩いているが、あちこちからの視線を感じる。やっぱり見られているのだ。彼らはどんな反応をしているのか気になるが、足元が不安定なために見ることができない。それともしかしたらよそ者に対する警戒心をもってにらみつけているかもしれないという軽い恐怖心が、いっそう目を足元に釘付けにしている。

 しかし、コミュニケーションはあったほうがいい。なにもしなければ彼らが敵対心を持っているのか、好意的であるかもわからないでスッキリしない。橋の途中だったが足場の良い場所で立ち止まり思い切って 「アッサラームアレイコム」と大きな声でイスラム式のあいさつのことばを顔を上げるや否や視線の方向に投げかけた。

 すると彼らは一瞬びっくりした様子を見せたがすぐに「ワアレイコムサラーム」と返事をしてくれた。 彼らはどこにでもいる陽気で人懐っこいフィリピン人に変わりはなかった。しかしイスラムのあいさつを覚えておいてよかったものだ。

 先制攻撃が功を奏したのか彼らは私を面白い外国人という風に見始めたようだった。しばらく歩いたために少し慣れてきて、周りをうかがう余裕も出てきた。さっきの返事が返ってきた方向を見ると、友好的なまなざしが見えた。

●異国で仕事をするノウハウ
 見知らぬ土地で取材や撮影をするときは、現地の人を味方にできるかどうかで成否が左右される。
私はたいてい、まずは子供を手なづけるという姑息で幼稚ではあるが、効果的な手段をとる。
 子沢山の東南アジアでは子供の調達は簡単だ。路地裏に回ればすぐに5人くらい集まってくる。彼らにとって外国人という存在自体が興味津々なのだから、その外国人がやることはほとんどバカ受けでただ抱き上げたり両手を持ってぐるっと回したりするだけでキャッキャとはしゃいでくれる。

 「もう自分の子供とこうやって遊ぶことに違和感のない年齢なのだが‥‥」という所帯じみたことは抜きにして童心に帰る。 喜ぶ子供を見てうれしくない親はいない。今度は大人を味方にする番であるが、子供のときと違ってただ無邪気に接していれば良いというわけにはいかない。

 しかし子供の心をつかんだ後で警戒心は薄れてきているので、取材がてらにこの地域に関する事柄を聞いてみる。 ここは外国人観光客がふらっと訪れる場所ではないので予習ができず予備知識はほとんどない。なので現地人の情報に頼るのであるが、自分達に関心を示してくれることへのお礼からか過剰なサービスで知らないことも自信たっぷりにあれこれとしゃべる人もいるので、複数の人に同じ質問をしてより正確な情報が得られるようにする。

●町内観光ツアー
 話を聞きつけたのか、青年団のリーダーのような若者がやってきてここの案内役を買って出てくれた。彼についてモスクをはじめとした水上集落のあちこちを回ると、さっき一緒に遊んだ子供達だけではなくひまで物好きそうな大人までが同行して15名ほどのツアーになっていた。

 水上集落は、外見は家屋ばかりのように見えるが食料品店、お菓子やなどのちょっとしたお店もあり集落内で最低限の用事は済むようになっていた。少し離れた街の中心に行くのは面倒くさいし、イスラム教徒 という少数派の負い目もある。

 しかしツアーのメンバー達はとにかくにぎやかで、リーダーの説明にも「そうじゃなくて‥‥」というかんじで口を挟むものもいる。写真を撮ろうとカメラを向けると大人も子供もしゃしゃり出てきて、記念写真程度のものしか撮らせてくれない。うるさいと追い払うわけにもいかず、ただカメラに写って満足するのを根気良く待つしかない。 「みんながいなかったら、もっとスムーズにいったのに」と心の片隅で思っていても、ひょっこり現れた変な外国人をひとりにさせてはくれない。悪い人たちではないのだが、こちらは一応仕事だから困る。

 というようにいつもより多目の警戒心を携えてのスタートであったが、その後の撮影はまあ順調に進んだ。帰りは集落の入口のターミナル からジープニーで町の中心部に戻ることにした。ジープニーはガラガラで最初はラッキーと思ったが、満員にならないと出発しないことがわかった。まあ急ぐ予定はないので、車内に腰をかけて気長に待つことにした。  20分くらい過ぎたころ、ゆっくりとドライバーが運転席に入りエンジンをかけていよいよ出発となると、撮影も無事終了し騒がしかったツアーからも完全に解放されることに軽い安堵感がこみ上げてくる。しかしジープニーが動き出すとまだ解散せずにターミナルにたむろしていたままだったツアーの面々が立ち上がっていつまでも手を振ってくれている。ホッとしたのに、なんとなく感傷的になる瞬間だ。
これだから旅はやめられない。

初出:MSNニュース&ジャーナル(1999年3月18日)を加筆訂正。

水上家屋の集落の写真

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