リスボン・チンチン電車の親子






 ヨーロッパでは市電が庶民の足となっている都市が多い。乗用車が増加すると邪魔者扱いされてすたれていく市電が走る街は適度な規模と交通事情であるために、ぶらぶらと観光するには最適である。

 ヨーロッパの田舎と呼ばれるポルトガルの首都リスボンにも市電があった。リスボンは街の地形が中心部を底にしたすり鉢状になっているので坂が多い。そしてとりわけ急な場所にはケーブルカーやエレベータがある。
 街の南端にはまるで海のような大きな川がありそこから片側5車線もありそうな大通りが北に向って伸びている。両サイドにはオフィスビルの立ち並ぶ新市街にあたり、乗用車がフルスピードで飛ばすのでタラタラ走る市電を寄せ付けない。

 しかし旧市街の歴史的建造物が多い地区では道幅が狭く駐車スペースもないために市電の走る環境が確保されている。この街で走っている市電の多くは小回りのきく1両のもので、まさにチンチン電車と呼ぶのがふさわしい昔ながらの車両である。一応複線であるが、狭い通りでは待ち合わせをしながら1車線になってガッタンゴットンと街を走り抜ける。

 また、一部の比較的平坦な路線にはエアコン付2両編成の新型車両が運行されている。流線型の車体はかっこよく、滑るような加速は快適だ。費用をかけてこんな車両を投入しているということは、まだまだ市電の存在価値があるのであろう。

 ある朝、宿に程近い通りから目指す方角に行きそうな市電にカンを頼りに飛び乗った。とりあえず行くあてはあったが、4日間有効のパスを持っていたので途中で面白そうな場所があったら降りるつもりであった。道路はまだ少し混んでいたが、ラッシュアワーのピークを過ぎたあたりで車内もすいてきた。外から入ってくるさわやかな風が気持ちよく「走れ!ぼくらのチンチン電車」といったノリで旅の気分を盛り上げてくれる。

 街の中心部に入ったところで渋滞にはまり動かない外の風景に飽きてきた頃、車内後方に小学校低学年くらいの男の子がいることに気がついた。空席があるのに座らずに入口の手すりをつかんで外に身を乗り出している。きっと市電が好きなのだろう。ン10年前の自分を見ているような気がした。あの年頃の男の子なら誰だってそうだ。電車に乗っておとなしく座っていることなどできやしない。

 と思ってみていると、彼は通りにいたOL風の女性とことばをかわした。たぶん「どこ行き?」「○○経由のXXまで」といったものであったのだろう。この子なら行き先はもちろん通過する通りの名前や乗換の市電も全て言えるような気がした。

 ゆっくりとではあるが車が流れだすと、彼は隣の車との車間距離を気にするようにしきりに目配りをしている。それがあまりにも真剣なので、だんだんただの市電好きの子供とは思えなくなってきた。次の停留所につくとその子はいったん降りて振り返り、降りようとしていた老婦人の手をとってあげた。これもただの子供の乗客にしては粋な行為過ぎる。リスボンの市電はワンマンで車掌はいない。たとえ車掌がいたとしても、こんな小さな子供はありえない。この子は一体何者であろうか。不可解であるが旅の途中では楽しい疑問である。

 あれこれ考えているうちに市電は渋滞の中心部を抜けて乗客も数えるほどになってきた。いつの間にか子供は最後部から運転席のすぐ隣に移動して前方を見ていた。子供にとって車両の前方から外を見ることは、横の窓からより何倍もエキサイティングなことである。その子も食い入るようなまなざしで前方を見つめていた。ときおり運転手とも親しげに話しているその子の顔をよく見ると、運転手と瓜二つであった。そうか、2人は親子だったのか。

 しばらくして運転手は乗客が私(ヒマそうな外国人観光客)だけになったのを確認すると、子供を自分のひざの上に載せた。子供は父親と一緒であるが操縦レバーを握ると運転手気取りでご機嫌である。すると運転手はレバーから手を離してたばこを取り出して火をつけた。その後も片手はタバコ、もう一方の手で子供を抱えて運転手は再びレバーを手にとることはなかった。

 まさかこんなチンチン電車に自動操縦装置があるとは思えない。その瞬間から私の命が小さな子供の右手の加減にゆだねられた。まさか死ぬことはないと思うが怪我をするのももちろん嫌だ。頼むから安全運転で、と願う私の気持ちとは裏腹に長い下り坂にさしかかってしまった。いくらパワーのないチンチン電車でも長い下り坂なら恐ろしいほどのスピードが出る。

 坂のはるか下に交差点が見えた。しかしそんなことはおかまいなしに子供の運転するチンチン電車はぐんぐん速度を上げていった。加速度がついて揺れが激しくなってきた車内で軽いパニック状態になり、「カーブを曲がり損ねて横転」やら「交差点で横から追突」など最悪の事態が頭をかけめぐった。

 坂の下の交差点に突入する寸前で父親がレバーを握り、チンチン電車は横転ギリギリのスピードで交差点に差し掛かると曲がり終える少し前のところでブシッという音とともに交差点の途中で止まってしまった。どうやらスピードと振動でパンタグラフがはずれてしまったらしい。

 子供が竹ざおを持って外へ出ると、はずれて伸びきったパンタグラフを架線に引っ掛けなおした。調子に乗るからかんなことになるのだが、何も慌てずおまけに竹ざおも常備しているところをみると毎度のことなのであろう。走り出したチンチン電車が再びにぎやかな通りに出ると、広場の前で新型車両の市電とすれちがった。子供は興奮して歓声をあげていたが、父親はバツの悪そうな表情でじっと前を見ているだけだった。自分の運転する旧式のチンチン電車に引け目を感じているのだろうか。流線型の新型車両が通り過ぎた後に子供は大きな声で父親に何かをしきりに問い掛けていた。「おとうさんはなんであれを運転しないの?」とでも言っているのだろうか、父親は口数少なくなま返事でかわしているようにみえた。

 ほのぼの、そして少しヒヤヒヤのチンチン電車の旅を終えた私は親子に軽く挨拶して前の出入り口から降りた。子供の引っ張る紐でベルがチーンと鳴ってチンチン電車は再びゆっくりと動き出した。

初出:MSNニュース&ジャーナル(1999年7月6日)を加筆訂正。
チンチン電車の写真

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